フルニエとシュナーベルのベートーヴェンの古いLPを聞いてみる気になった。20年ぶりくらいだ。 その間に自分の音楽観もずいぶん変わったし、どんな風に思うかとちょっと恐る恐る聞いてみた。実にいい。
1番、2番の序奏部は今聞いてもちょっと遅いと思う。そういえば、ひと昔前のベートーヴェンの緩叙楽章はやたらに遅く遅くというのが一部の流行だった。しかし、4番のはそれほど過剰には遅くない。第一、4番の序奏はそもそもアンダンテである。8分の6が感じられる「歩く早さ」のはずである。しかしとにかくどこを聞いてもすばらしく美しい。グリュミオーのヴァイオリンの歌い方を思い起こさせる甘美な音色だ。そういえばフルニエといえば「甘い音色」がキャッチフレーズだったかな。5番の緩叙楽章、コラール風冒頭部もすばらしかったと記憶していたが、その記憶に間違いはなかった。D durに転調するところははまさに天にも昇らんばかりの美しさだ。すっかり聞きほれてしまった。1番、2番のアレグロは颯爽としたテンポ感が、心地よい。若き日のベートーヴェン。屈託が無い。二人の奏者の名人芸を披露することに躊躇が無い。娯楽としての音楽に徹している。それをこの二人の大音楽家はこれまた堂々とやってのけている。
そして今日書きたかったもうひとつはシュナーベルというピアニストのすばらしさだ。 ひょっとしてこの顔合わせでなければフルニエもこうは弾かなかったのではないかと思うくらい、ぐいぐい音楽を前進させる。ホントにこのテンポで指が回るのかと思われるほどの速さなのにシュナーベルはらくらくと弾いている。別に速ければいいと言いたいわけではないけれど、あの速さは特筆ものである。が、しかしただ名人芸的なだけではない。1、2番の第1楽章はどちらも大変長いソナタ形式で書かれている。(サロンコンサートやちょっと腕のある愛好家が家庭で秋の夜長を過ごすために書かれた、当時の娯楽としての音楽の側面ではないかと推測する)その長いソナタを、遠いところまで音楽を見つめて弾いている。だから途中で退屈になったり息切れしたりしない。
それにしてもと思う。ベートーヴェン初期のあの単純極まりない構成と楽想。いやこれは悪口を言っているのではなくてその反対だ。どうしてああいうことが書けるのか。これはれっきとしたひとつの偉大な才能だと思う。ここが凡人との違いのひとつだ、きっと。変なことを言っていると思われるかもしれないが、僕が言いたいのは普通はああは書けないという事だ。人はもっと気取って、外面を取り作るものだ。そして演奏者もその罠にはまる。あまりに素朴な音楽なので何か味付けをしたり、ありもしない外面を付けて装ったりして聞き苦しい音楽にしてしまう。この二人の演奏はその対極にあるといっていい。
1、2番の爽快さに反して3番はちょっと退屈した。 あの曲は誰が弾いてもああなるのだろうか。スケルツォは異常な速さだが、1番2番の後に聞くとあの爽やかさがない。フルニエも音程がもうひとつだ。録音日も違うのか。なんとなく二人の「のり」が違う。そう思ってもう一度レコードを出してきて情報を読んでみてなんとなく合点がいった。
EMI Dacapo
番号C 147-01 382/83
録音日
第1番 1948年6月23日
第2番 1948年6月24日
第3番 1947年6月6,7日
第4番 1948年6月10日
第5番 1948年6月21、22日
第3番だけ一年早く録音している。この時が初顔合わせだったのかどうか知らないが、録音も2日かかっている。たくさん切り貼りしたのだろう。 なかなか2人の意見が合わなかったのか? 翌年同じ頃に4、5、1、2の順で録音しているが、1、2番は最後の2日に1曲1日で録音している。 6月10日からすでに2週間近く一緒に弾いている。その間にどこかでコンサートもしたかもしれない。 音楽の流れがいいわけはきっとこの辺にもあるのだろう。
2010年11月21日 (同年10月6日掲載のブログ記事を加筆訂正して掲載しました)
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